なやみごと

私の「なやみごと」が始まったのは、
たぶん小学校低学年くらい。

といっても、
今から思えば
どれも、まったくたいしたことのない、ちっぽけなもの。


たとえば、
言葉の文末を「・・・と思うよ」と言ってしまったけど、そこは「・・・だよ」にした方がよかったんじゃないか・・・とか、
はっきり思い出せないけど、
物を渡されたときに、右手でうけとってしまったけど、左手の方がよかったかなぁ、とか
ほんとにどうでもいいような、
意味のわからない
話の本質とは関係のない
ちっぽけすぎる「なやみごと」に、
私の小さな脳みそと心は、毎日はりさけそうになっていた。


家族→学校と、徐々に広がる大海原のような未知の社会での小さなできごとに、
毎回毎回とまどっていた。


そうはいっても、その「なやみごと」は、たいてい1日もすれば忘れ去られ、
翌日はまたちがうことになやんで、
ときには、過去になやんだことことも忘れてまた同じことでなやんだりしていた。


そんな
どうでもいいような、
誰の得にも害にもならないような、
ちっぽけな「なやみごと」を
飽きもしないで聞いてくれたのは、
母だった。


毎日毎日、家に帰るたび
「どうしよう〜〜」と母にとびついて、話を聞いてもらい、
時には助言をもらい、
そして大半の、アドバイスも何もない程なんてことないなやみには、
「だいじょうぶよ」といってもらっていた。


母は、身体も心も、強い人だった。

この、「だいじょうぶよ」の一言で、
それまで私をおおいつぶそうとしていた「なやみごと」は、
一瞬でぽいっと、「過去のBOX」に入れられ、気持ちの整理をつけて、
私は、新しく、明日を始めることができていた。


わたしの「なやみごと」の出口は、母の「だいじょうぶよ」だった。


そんな母が倒れて、もう3ヶ月がすぎようとしている。

生と死の間で苦しんで、
なんとか乗り越え、
そして今、たくさんの後遺症とたたかっている。

私の想像をはるかにこえる苦しみを体験し、
そして今も、不安に塗りつぶされながらも、がんばっている。

そして、そんな状況で
当然ではあるけれど、
わたしの「なやみごと」は、
もう母の耳には届かない。



小さい頃から、母が、ずっと話を聞いてくれたおかげで、徐々に
ちっぽけな「なやみごと」は、「なやまなくていいこと」と判明して、
私は、以前よりも少し気持ちが楽になっていた。


できるだけ人を傷つけたりしたくないけれど、
あれこれ悩み思案して対策を練ったとしても、自分の思う方向とまったく違う方へ物事がすすんでしまうこともある。
だからこそ、どんな答えになったとしても、受け取っていけるように、後悔しないように、
決断・行動、その瞬間瞬間を、なにより大切にしなければならないことを、
教えてもらった。


今、私は大人で、
母が倒れる前は、もう母に泣きつくことは無くなっていた。
それでも、離れて暮らしてる母にしょっちゅう電話しては、他愛もない「なやみごと」を聞いてもらっていた。
認知症予防にと思いながら、
これが寂しがりやの母にとっていいことだと思いながら。


だけど、
もう電話もできなくなって、改めて気づく。
大人になっても、母に電話していたのは、母のためではなく、私のためだった。


だいじょうぶなことは、分かっている。
ただ、私は、「だいじょうぶよ」って言ってもらいたかったんだ。

助けられているのは私だった。


私があんなに不安に思ってた社会で、
笑顔で、楽しくすごせたのも、
母の「だいじょうぶよ」があったおかげだった。
どんだけ私は子供なんだ、いい年をして。



絶対的な存在は、今も、これからも、ずっと変わらない。
だけど、成長とともに、
そして、周りからもらった、たくさんのやさしさが積み上げられるとともに、
気持ちの置き場所を変えていかなくちゃいけない。


今度は、
私が、母の、誰かの
支えにならなくちゃいけない自覚を持たなくちゃいけない。


甘えはもうすてて、
本気の「なやみごと」にだって、
誰かの「だいじょうぶよ」を求めることはせず、
自分で一歩一歩、乗り越えて行かなくてはいけない。

この暗闇の出口は、自分でみつけなければならない。


その時が、来たんだ。



今、
涙もろくなっている母の病室に行っては、
母譲りの「だいじょうぶよ」を、私が母へ届けている。
いつか、心に届きますように。

絶対的な存在は永遠に変わらない。
一緒にすごせる時間の大切さを自覚して。
母が、新しく、明日を見つめることができますように。